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『天上界メッセージ集(III)』
(1995年2月15日 初版発行)抜粋

「第一部天上界メッセージ
第八章−天上界メッセージ 1992年」より

ラファエル
 「人には神を求めるに相応しい性格と、世俗の楽な生き方に慣れて、それを選ばずにいられない性格の両者があります。
 どうあっても良心と神を求めて、悪を憎み、世界の正義の為に戦おうとする、人間を愛する人々は天に目を向け、その加護の下に生きようと願わずにいられない。心はいつも浄化され、その悪との闘いは永遠に続こうとも正義の意志を棄てることなく、神と良心の為に生命を棄て肯じない崇高な魂となります。神の戦士とはそのような人であり、天の求める魂でもあるのです。
 今この末法の世の中、最後の審判の最中に、不幸にも千乃裕子様は卑劣な過激派軍団のアジトと遭遇し、それ以来、陰に陽に彼等の新兵器による攻撃を受け、日々身体を弱らせられ、完全犯罪死を企まれております。最終にして最新の天の真の仲介者にそれが実現しては、正法の旗印は汚され、引きずりおろされて世界の真の滅亡が間もなく訪れます。
 信じようと信じまいと天の象徴としての千乃様の死は、今や天の死ともつながり、人類は真の神々との別離を迎えることになります。
 その為に、それを阻止する為に、自らの生命を厭うことなく、千乃様を変質的な狂人の集団にも等しい過激派暴力団から救出すること、その悪魔にも等しい毒牙から守り通すことこそ、あなたがた正法者一人一人の最後の使命として求められているのです。.......」

第三部 正法の実践とは  物の考え方について

ラファエル
 「私はラファエルでございます。今日は物の考え方についてお話ししましょう。
先程の正法基礎講座にもありましたが、善にも悪にも片寄らないのは、中道ではない。この意味が解りますか。ただ単に講師の言葉をとらえて理解しているのではないでしょうか。中道とは如何なるものか深く考えたことがありますか。中道とは中の道を言うならば善にも悪にも片寄らないのは、そう納得するのはしごく当然なことです。
 しかし中道とはそのような意味ではありません。なぜか解りますか。
 中道とはどのようなものを言うのか。善と悪とは如何なる基準をしているのか、そこから考えていきましょう。
 善と悪の基準は何なのか考えた事がありますか。何をもってして善というのか、何をもってして悪と言うのか、その基準はどこにあるのか。あなた方人間界の価値観の中にあるのか、自然界の中にあるのか答えはどちらでしょうか。自然界に答があるのです。
 自然界の中に善悪を求めるならば、どのようになるでしょうか。自然界に悪はありません。自然界は善です。宇宙の法則が正法だと言うのはそこにあるのです。
 なぜ、自然の法則が善なのか、それは他者を生かすからです。どのようにして他者を生かしているか。適者生存、弱肉強食です。どのような意味かお解りですか。
 生き残れる必然性のある者が生き残るということです。基礎になっているのは必然性なのです。必然性とはそうあらねばならないことを言います。何故そうあらねばならないのか、お解りでしょうか。それは生物が皆生きていかねばならないからです。それ故の自然淘汰であり、弱肉強食なのです。
 ならば自然の法則とは、自然の法則を元にした善と悪はどのようなことを言うのか。他者を生かすものが善であるのです。あなた方人間界の価値観で決めてはいけません。他者を生かすものが善であるのです。他者を生かすものが善であるとするならば、それを中庸と言います。それ故に善に片寄るのが中道というのです。お解りですか。
 中道とは単に中の道を言うのではありません。他者を生かす道において最適な方法を言うのです。その基礎となる価値基準は自然の法則の中に探らねばなりません。あなた方がものを考える場合にもそうです。
 理性を持ちなさいと私達は言います。どのように理性を持たなければならないのか。理性とはいかなるものかと何回もお話ししました。
 さて理性とは如何なるものですか。メッセージにもあったように正しく認識しよう、正しく理解しようとすることです。それはどういう意味でしょうか。正しく理解する、正しく認識するとはどのような意味か。それは自分に都合の良いところだけをとるものではありません。正しく理解するということは物事の本質をつきとめることです。どのようにしてつきとめるのか。感覚でつきとめるのではないのです。なぜそれはそのようになっているのか。なぜそうおこっているのか。何故今のような状態になっているのか。それを考えなければならないのです。それを正しく認識する態度と言います。
 正法は科学で宗教ではないと言います。どのような意味かお解りですか。科学とはどういう態度を言うか。物事の本質をつきとめることです。
 どのようにしてそれは動いているか、どのようにして成り立っているのか。それを考えていくのが科学です。ならば正法の態度もそれと同じなのです。
 正法は苦しみがあれば、それを神にあずけるものではありません。神に助けてくれと手を延べるものではないのです。正法とは苦しみがあれば苦しみの根源をつきとめるものなのです。苦しみの根元をつきとめてどうするか。解決するのです。原因が解れば結果が解り、解決策もわかるでしょう。
 例えば、何故自分の悪い性格が直らないのかを考えたことがありますか。何故自分が何十年間もこの癖が直らないのか。端的に言えば、直す気がないからだと言えるでしょう。なぜ直す気がないか、自分が楽だからです。自分を容易に生かしてくれるからその道を選んでいるのです。
 メッセージを受け取る場合にも自分の都合の良い所だけを受け取り、他のものを切り捨てる人が多いのです。そのような人は進歩しないでしょう。自分の性格の悪いところが何故悪いのか、他人にどのような影響を与えているのか、そして何故自分はそのようになってしまったのか、なぜ、そのままで放任しているのか、なぜ、なぜと繰り返さなければならないのです。そうすればやがてベールがはがれ、自分の性格の本質が解るでしょう。
 あなた方に繰り返して申し上げますが、なぜ、なぜと聞くのではありません。なぜ、なぜと考えていかなければならないのです。あなた方はただ単に生きているのではない。衣食住が足りれば生きていけるでしょうか。そうではないはずです。
 あなた方は考えて生きなければならない。何故考えて生きなければならないのか。それは、より良く生きていかなければならないのです。より良く生きるとはどのようなことを言うのか。生き易く生きるのではありません。正しく生きることを言うのです。
 正しく生きるとは自分に安易な方法で生きるのではありません。他者を生かす道へと生きなければならないのです。
 他者を生かすこと、どのようなことを言うか解りますか。他人の成長を促すことです。自己満足ではない善行を施すことです。・・・」