カゴを見る

エルアール出版
〒150-0043
東京都渋谷区道玄坂1-15-3
プリメーラ道玄坂407-133


「天上界メッセージ集」書籍一覧にもどる



『天上界メッセージ集(続)』
(1986年1月22日 初版発行)抜粋

「天使の詩集―七大天使
( Anthology of Angel Poems by the Seven Archangels )」より

   「『無題』        パヌエル

水面をそよぐ早朝の風が
さざ波を作り、
またさざ波を作る。

自然の風景が私の心に浸み入る時、
天はやすらぎの時に入る。

農夫は畑にて働き、
商い人は仕入れに急ぐ。
地上の人がようやくに目覚める頃、
天はやすらぎの時に入る。

只二刻(ふたとき)の休息なれど。

風を追い、幼き天使の群れが舞い舞うのは、
私達 疲れ切った天の使いが
雲間に横たわる時。

真昼の夢を 羊の群れがその鈴の音で覚ます時、
幼子を連れた菩薩の群れが 三々五々と集い、
如来の語るを聞く。

しかし天の使いの働きは 休む暇なく、

地上の守護と天上の守備と
地上の平和と天上の規律と
日々数を増し、悩ます死者を

悪の魂をさとし、滅し、
天の計画を行なう為、
つまずきとなるものを除く為、
邪なる思いを人々の心より閉め出し、
頭上の悪の霊を追い払う為、

天の使いの働きは 休む暇なし。

心と魂の安らぎと休息を知るは
如来と菩薩のみ。

宇宙と九次元は光なり。

他は只、天の一部なり。
それぞれに務めのあるも。」

   「若き人々に励ましの言葉    ラファエル

小さく弱き妹よ、弟よ。
おまえは
覚束ぬ足どりではあるが、
霧につつまれた明日を知っているだろう。
まだ真実を見ぬ青き目だが、
光のある方向を知っている。

一歩踏み出せば、失意が口を開けて待っているかもしれない。
手を伸ばせば、それは絶望であるかも知れない。
何もかもが辛苦の日々であるかも知れない。
それでもおまえは涙を流すな。
花の種を播く自分の足元だけを見て、
いつでも太陽の方を向き、
天へと伸びている道を見失わず歩け。
日かげの草は伸びずに枯れ、
日なたの草こそが実をつけ、次の季節があるということを
忘れずにおきなさい。
おまえがそうした苦難に負けず、
信じているものが正しいのなら、
足元の花が咲き、霧が晴れたとき、
敢然と自ら大地に立つことが出来るのだ。」

第四章 「アガペーの愛について 千乃裕子」より

「...私は信念として、人や悪霊やサタンの悪念に負けるような弱い善我であり正義であるならば、“私は善人だ”と思うただそれだけの価値もないと考えております。たとえ高僧といわれようと菩薩といわれようと、聖人といわれようと、悪を放置し許容するのは偽善者であり、悪人に等しいと確信しております。
 神々の意志と力は古代より人類と地獄の上に君臨し、彼等を従えてきたと言い伝えられているのは、それだけの強い善の意識と正義が天の国に迷わぬ無限のエネルギーを与えてきたからでしょう。
 その善と正義は何の為のものか。それは常に人類の為に良かれと思い、導く神々の愛の心から出るものであり、人類を救おうという熱意と温情以外にはないのです。尽きることのない人間への暖かい関心です。“To err is human,”と英国の詩人の言葉にある通り、過ちを犯すのが常であるのが人間であっても、天は人の過ちを許し正してこられました。人類に幸せを齎す為に正義と信義(神と人との間に)と愛とを説いてこられたのです。

 ・・・・・・・略・・・・・・・

・・・知性高く賢明なる神々はそれを有史以前から熟知しておられ、人類を善導してこられたのです。現天上界はかくも正しき論理と人類の選ぶべき道、為すべき諸事を説いておられます。且つその善意に対して、正義に対して、人類愛に対してこの世紀に住む、末法に生きる私達は反論する何らかの論拠を持ち得るでしょうか。
 あえて現天上界に背く愚かな人々がいるとすれば、個人であれ、神と繋がるとうそぶく偽善の宗教宗派であれ、それは許されざる社会悪であり、裁かれねばならぬ存在なのです。
 この事実を世界の良識は見抜かねばなりません。その止めどなき利己的エゴイズムを、偽善とすりかえの理論で私達を欺く偽善者を、厳しく批判し、改めさせなければならないのです。平和共存、共栄の原則を無視するものは適応能力を欠くものであって、人間社会の自然淘汰により絶滅されるべきものです。・・・・・・・
 ・・・善は強くなければならない。悪に譲るべきではない。反って悪を“平和な”社会から、追放するものでなくてはならない。
 そしてここに平和共存に不可欠の真の利他的愛、博愛、隣人愛、アガペーの愛が再び論じられねばならないのです。
 アガペーとは利他的感情の真髄であって、イエス・キリストの自ずからを燔祭のいけにえとなす十字架上の死に象徴される、“自己犠牲の愛”即ち“愛を与えること”に集約されます。
 哲学者も語り続けるように、人間は“愛を与える”というアガペーの思いや意志、行動を止めた瞬間にその関心は自己愛に向かい、他に求め奪う愛、エロスの愛、即ち自己の存在を確かめる為だけに表現される本能的な愛に堕してしまうのです。

 ・・・・・・・略・・・・・・・

 なるほど“与える愛”はその与える行為において充足感があり、アガペーの愛であればあるほど、与える側の精神の昇華と受ける側の感動が惹き起こされます
 ここでしかし混同してならないのは、“与える愛”は良き師の如く育てる愛でなければならない点です。無限に与える母の愛はアガペーの本質ではないのです。
  イエス様が“一粒の麦落ちて死なずば”と言われたのはそこにあります。
  シルヴァスタインの描いたリンゴの木は男の子に精神的な遺産を与えたわけでは決してないのです。側に居てくれることを喜び、絶えず何かしてやれることはないかと問うていました。そこに世界が共鳴した母親像が現われているのかも知れません。しかしそう問い、与え続けたのは男の来訪を期待し、来訪によって自ずから与えるものを有していることを認識し、自己の存在を確かめて喜ぶエロスの愛なのです。与える喜びに溺れる愛であり、男がいかに非情な要求を出そうとも意に介さない、マゾヒズムの表現なのです。そして男も奪うだけの行為、自己愛しか学ばなかった。
 イエス様の十字架により象徴される愛の教えは、マゾヒズムの表現を持ちながら、マゾヒズムであってはならないものです。何故ならば、イエス様の教えの目的とする所は平和であり、隣人愛を通して互いの幸福と繁栄を目指すものであったからです。まさにその真理に基づいて、同じく世界の平和共存の為には愛を与え合わねばならないのです。アガペーの愛であって、エロスの愛ではないものを。互いを奪うものではなく、互いを正しく育てる愛です。・・・・・・・・・イエス様は厳しく人々の過ちを正され、父性愛を与えた方でした。アガペーは母親の愛ではなく、父親の愛の表現であったのです。師として人々を導き、病人には“立ちて歩め”と自ずからの意志を強くする言葉と、魂に自由を与える言葉を掛けられました。・・・・・・・」