「 <最後の審判>
神の声を聞き、神を見しものが、盲いて、光に歩まず、
ついには離れゆく時、天は涙す。
生まれしときより慈しみ育てし人が、その手を離るる時、
天使は悲しみに憂う。
神は人々と共に喜び、憂い、苦しみ、嘆き給うた。
その果しなき年月を一顧だにせず、
人は神を見棄てんか。神の子である人は。
苦しみの時、悲しみの時求めた神は
いつも救いの手を伸べて側に居給うた。
その愛深き神を棄てて、人は何処へ行かんとするか。
人々よ、悪に魂を委ねんと志し居るか。
神の声を聞けと、天の使いは呼びかけ給う。
自ずから伸べられし手をつかみ、救われよと−
千乃裕子 」
「...そして来るべき新しき世紀とは、神の声を聞きながら、宗教を持たぬ、あるいは持っても、それは心の問題であり、一人一人が魂の内奥にある善我に呼応する神と結びつくものであることが望ましい、そのような世紀なのです。
神と結びつく善我とは真に悔いなく働きかける心−すなわち憐れみをかけたいと願い、与えたいと願い、働きたいと願い、尽くしたいと願う−それが素直な心の動きでなければならないのです。自己を偽り、強制することは真の善我ではありません。なぜならば、強いられてする行いには、いつも後で不快な気持ち、疲労を覚えます。その行為に喜びと満足感がついて来なければ、それは善我ではなく、偽我なのです。神と結びつく善に苦しみや、悲しみや、功名心、見栄、虚栄は存在し得ません。もしそれらがあれば、それは偽善なのです。善に基づく自然な心の流れ、が第一です。...
....この最後の審判の時は、その悪の魂を消滅してゆく時でもあり、善なる心の人々が守りが豊かにあることを間もなく感じるようになるようなときなのです。
願わくばこの最後の審判がいままでの乱れに乱れた末法の世に一つのピリオドを打つものとなり、新しき心と魂と世界が生まれるものであれと私達は祈っております。」
「.....そしてサタンはその時自分に加担するものは、味方するものには、“永遠の生命を与えよう”と申したのです。
善悪いずれにも関わらず永遠の生命(何か大変素晴らしく見えるもの)を約束された時、三次元の多くの人は強く見える方に付き、弱く見える方を滅ぼそうとするでしょう。天上界の善霊も同じことをしたのです。
人間の魂である四次元の霊は天国にいながら、同じ愚かな心を持ちました。
それゆえ私達の戦いは一層苦しいものになり、一層長く続くものになったのです。それはサタンとの最終的戦いが2月2日から13日に渡って行われた時のことでした。
私達ははじめて知りました。最後の審判において何を基準とすべきであるかを。
その基準とすべきは次のようなことなのです。またこれは今後、天上界(天国)に迎え入れられる基準にもなるでしょう。
最後の審判において与えられる永遠の生命はいかに生きる人に与えられるものであるか、また天国に迎え入れられる人とはどのような人であるか。
イエス様の山上の垂訓により証せられた人々による善人の基準を外れてはもちろん駄目です。しかしそれ以上に光り(善)を求めなければならないということです。植物も動物も生き伸びるために太陽の光を求め、その光の当たらぬものは死を迎える。自然淘汰してしまう。そのように人間もあらゆる事をして神の恵みと光を求めなければ、神は光を与え給わない。恵みを与え給わない。その恵み(永遠の生命)はしかし、太陽の光と同じく光が当たるところにおりさえすれば降り注ぎ、与えられるものであり、自然に得られるものでもあります。
しかしこの光(善)はただ求めただけでは駄目なのです。善のために戦い、善なる心に徹すること。それがいかに困難なことであるかは、密林の中の木々が曲がりくねって太陽の光を求め、根はうねりにうねって水を求める。それは死闘さながらのものを思わせます。
それほど“善に徹して生きる”事は難しく、また天上界に迎え入れられるものも数少なし、ということを私は皆様に改めてお知らせしたいのです。
このたび天上界の戦いで出た半数の人の裏切りに加えて、高橋信次氏の生前のあれほどの善行と徳行にも関らず、天上界において天上界を裏切り、悪魔とも見える行為をなした。それが天国の規約を一層厳しいものにし、永遠の生命を一層数少ないものにしました。
これはまた見方を変えれば、人類が一つの大きな自然の法則に生きているということの証です。過酷な自然の中で動植物は適者生存を強いられ、またそれにしたがって生き、種族が残り保存されてゆきます。
しかるに人類は、いわばいままで神の恵みと保護がありすぎて甘やかされ過ぎた、と言っても過言ではないと思います
これからの天上界より与えられるものは“塩からいパン”です。水はそれぞれの心の中の“善なる心”。自分で求めて得なければなりません。......」
|